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L.A.メタルに始まる、アメリカにおけるHR/HMの栄枯盛衰


そもそもLAメタルとは

LAメタル。LAとは言うまでもなくLos Angels。アメリカ西海岸の中心都市の名前を冠するこのワードもNWOBHM同様、ジャンル名というよりは、80年代にLAを拠点に活動したHR/HMバンド群によるムーブメントの名称である。

コードに開放弦の刻みを加えたリフ、ノリのいいミドルテンポ、曲名を叫ぶだけのシンプルでキャッチーなサビなど、NWOBHMに比べると「典型的な音」のイメージが明確であるがゆえにジャンル名として機能することもあるが、厳密に言えばやはりそれは不適切であろう。

というのも、イメージが強いとはいえ、「LAメタル」という言葉のもとに括られるバンドの中でも、成功したバンドは当然ながらそれぞれ明確な個性があり、単純にLAでHR/HMが流行っていて活動しやすいから、という理由で集まってきたミュージシャンやバンドが多かったことでLAにその手のバンドが多く集まっただけで、そこに音楽的な共通項は必ずしも存在しなかったからである。

そもそも「LAメタル」というワード自体、実際に使用されているのは日本くらいのもので、2016年現在、この言葉でウィキペディアが存在しているのは日本語のみである(海外では80年代に一世を風靡したキャッチーなHR/HMバンド群を、そのルックス的な共通点のみに着目し「ヘア・メタル」「グラム・メタル」と総称するのが一般的で、LAのバンドだけをことさらピックアップすることは少ない)。

厳密には当時イギリスの『SOUNDS』誌上でシルヴィ・シモンズという編集者がMOTLEY CRUEのことを「LA Metal」という言葉で紹介していたようだが、この表現が欧米において一般化することはなかった。

その『SOUNDS』誌の事例を知っていたかどうかは不明だが(おそらく知っていて、LAでメタルが盛り上がっている状況に照らして使い勝手のいい言葉として濫用したのであろう)日本の音楽誌『MUSIC LIFE』や、その増刊として登場した『BURRN!』において頻繁に使われたことで、日本のHR/HMファンの間では一般化したワードである。

LAメタルの成り立ち

もともとLAを含む西海岸というのは必ずしもHR/HMが盛んな土地ではなく、むしろウエスト・コースト・ロックと呼ばれる、カントリーの影響を受けた明るいロック・サウンドで知られる土地であった。

70年代後期において、当地でHR/HMをプレイするバンドでそれなりに知られていたのはVAN HALENと、ランディ・ローズが在籍していたQUIET RIOTくらいのもので、前者は全米規模でも成功していたが、後者はアルバムが日本でしかリリースされない程度の活動規模であった(そもそも当時のQUIET RIOTは純然たるHR/HMとは呼び難い音楽性だったが…)。

70年代後半のこの時期、後にW.A.S.Pで知られるブラッキー・ローレスや、MOTLEY CRUEのニッキー・シックスなどが在籍していたSISTERやLONDONといったバンドが活動を始めており、サウンドやルックスの面で後に「LAメタル」や「グラム・メタル」と呼ばれるサウンドの萌芽を感じさせていた。しかし、まだ20歳になるかどうかの若者による未熟な活動でもあり、この時点では「地元のアマチュア・バンド」でしかなかった。

その後80年代に入ると、ニューウェーブの流行があり、LAでも短髪にネクタイを締めたバンドが主流になっていたそうだが、そこに長髪&レザーという場違いなファッションに身を包み登場したのがMOTLEY CRUEだった。

ニューウェーブ全盛のLAクラブ・シーンでMOTLEY CRUEは当然ながら苦戦を強いられたが、ニッキー・シックスがかつてLONDON在籍時に作ったコネを活かして、当時既にある程度人気があったY&Tの「スターウッド・クラブ」公演での前座を務めたことをきっかけに動員を伸ばし始めた。

そして「Leather Records」という自主レーベルから1,000枚限定で作られ、ライブ会場で無料配布されたシングルが話題を呼び、次々とライブをソールド・アウトにしていった。

そして81年に8,000ドルの予算で作られた自主制作アルバム「TOO FAST FOR LOVE」は3か月で2万枚を売り尽くし、ついにメジャーの「Elektra」が1982年5月にMOTLEY CRUEと契約する。このMOTLEY CRUEの動きこそがLA メタル台頭の嚆矢であり、象徴的な事件だった。

同時期、OZZY OSBOURNEのギタリストだったランディ・ローズの事故死をきっかけに、ランディがかつて在籍していたQUIET RIOTが再結成。またフォアン・クルーシェ(B)がDOKKENから移籍することでラインナップの固まったRATTも83年の初頭に名門クラブ「Whiskey A Go-Go」のワンマンを成功させることでVAN HALENの初代マネージャーだったマーシャル・バールの目に留まり、彼が設立した「Time Coast」レーベルからミニ・アルバム「RATT」でデビューし、成功を収めるなど、LAにおける新しい動きが顕在化しつつあった。

もちろん、LAローカルでHR/HMが盛り上がっても、それが全米規模で受け入れられなくてはムーブメントにはなり得ない。しかしこの時期、JUDAS PRIESTやBLACK SABBATH、OZZY OSBOURNEなど、イギリスのNWOBHMムーブメントによってよりメタリックに変化したかつてのブリティッシュ・ハード・ロック・アーティストがアメリカでもファン・ベースを作りつつあったし、AC/DCやSCORPIONSといったバンドが全米TOP10クラスの成功を収めていた(極めつけはDEF LEPPARDの「PYROMANIA」アルバムの大ヒットだろう)。そしてLAでの動きと並行するかのように、TWISTED SISTERやNIGHT RANGERなどの人気バンドが登場するなど、全米規模でHR/HMが盛り上がりつつあったのである。

アンダーグラウンドの動きとしては、後に速弾きギタリスト発掘人として知られるようになるマイク・ヴァーニー率いる「Shrapnel」レーベルから、インディーズのメタル・バンド(LAのバンドばかりではなかったが)の音源を集めた「U.S.METAL」というオムニバスが1981年から年に1枚のペースでリリースされていた。また、かつてレコード店で働いていたときに「New Heavy Metal Revue」というファンジン(同人雑誌のようなもの)を作って、クラブで活動するインディー・メタル・バンドの紹介をしていたブライアン・スレイゲルが、82年に「LAのメタル・バンドを紹介する」という名目のもとに設立した「METAL BLADE」レーベルから「METAL MASSACRE」をリリース。こうしたオムニバスへの参加をきっかけに注目を集めるバンドも多かった。

すなわち、若いHR/HMミュージシャンが集まってきていたLAのムーブメントが、全米規模に拡散していく素地が80年代初頭のアメリカには用意されつつあったのである。

実際の所、MOTLEY CRUEをはじめ、RATT、DOKKEN、ROUGH CUTT、W.A.S.P.といった、LAメタルの中核とされるバンドのメンバーたちの多くは、かつてアマチュア時代に同じバンドでプレイしていたり、ルームメイトだったりといった「お友達」だった。そんな彼らが出演していた「Roxy」「Whiskey A Go-Go」「Troubadour」「Rainbow」「Country Club」といったハリウッド周辺のクラブ・シーンが盛り上がっていく過程、これこそが最も狭義の(それだけに純粋な)「LAメタル・ムーブメント」だったといえるだろう。

そして、「現在は有名バンドのメンバーであるオリジナル・ギタリストの事故死」という、いわば「ゴシップ記事」によって大衆レベルの注目を集めることに成功したQUIET RIOTの復活アルバム「METAL HEALTH」が全米チャートで大ヒット、これがLA メタル・ムーブメントの(商業的な意味における)本格的な幕開けとされている。

さらに、そのQUIET RIOTも出演した83年の大型フェスティバル、「US Festival」の「ヘヴィ・メタル・デイ」(その他VAN HALENやSCORPIONS、JUDAS PRIESTなども出演)に出演したMOTLEY CRUEがここで飛躍的に注目度を上げ、実質的なメジャー・デビュー作となった「SHOUT AT THE DEVIL」もスマッシュ・ヒットを記録。各レコード会社が一気にLAのメタル・バンドに注目するようになった。

こうした動きに刺激を受け、ARMORED SAINT、GREAT WHITE、KEEL、HELLION、LETHERWOLF、LIZZY BORDEN、W.A.S.Pなど、多くのバンドが自主制作に近い形でアルバムやミニ・アルバム、シングルをリリースし、LAのクラブ・シーンがさらに活況を帯びてくることになる。

そして、84年から85年にかけて、LA メタルは絶頂期を迎えることになる。RATTやDOKKENのアルバムがそれぞれ好セールスを記録、その他GREAT WHITEやW.A.S.P、BLACK 'N BLUE、STRYPER、ROUGH CUTT、KING KOBRA、MALICE、WARRIORといったバンドが次々とメジャーからデビューを果たした。

日本においても、初のHR/HM専門誌『BURRN!』が『MUSIC LIFE』の増刊として創刊されたのはちょうどこの時期で、リッチー・ブラックモア人脈をはじめとするブリティッシュ・ハード・ロックに興味・関心が偏っていた当時の編集長の思惑とは関係なく、当時のHR/HMシーンにおける最も旬な話題であったLA メタルのブームを伝え、日本におけるHR/HM全体の人気を盛り上げる上で大きな役割を果たした。


なぜLAメタルは人気を得たか

ひと言で言えば、見た目が派手でカッコよく、音楽的にも刺激的かつキャッチーだったから、ということに尽きるだろう。

LAメタルの特徴は、まず何と言ってもルックスにあった。海外においては「グラム・メタル」と呼ばれていることからも明らかなように、グラム・ロックを思わせるメイクを施し、ちょっと普通の人が日常的に着るには抵抗のある「コスチューム」に身を包んでいることがLAメタルのバンド群と、イギリスにおけるNWOBHMのバンド群との大きな違いだった(デニム&レザーというNWOBHM定番の服装は、ただのバイカー・ファッションであり、必ずしも「ステージ衣装」ではなかった)。

やはりスターはカッコよくなくてはならない。まして当時まだ多少なりとも「不良の音楽」「ワルが聴くもの」というイメージが残っていたロックのスターともなれば、華やかに派手でありつつ、刺激的かつ毒もなくてはならない。そんな大衆の抱くステレオタイプなロックのイメージにバッチリとハマったのがパーマでボリュームを持たせたヘアスタイル、メイクにアイライン、カットTシャツ、バンダナ、ペイント・ギターというLAメタル・バンドのルックスだったといえるだろう。

元々、先述したSISTERやLONDONといった、LAメタル黎明期のバンドはSWEETやSLADE、MOTT THE HOOPLEといったイギリスのグラム・ロック・バンドやNEW YORK DOLLSの影響を受けていたため、ルックスも派手志向だった。そこに、例えば初期MOTLEY CRUEの衣装は映画『マッドマックス2』や『ニューヨーク1997』からヒントを得ていたといわれるが、西海岸ならでは享楽的な気風もあり、アメリカ人ならではのエンターテインメント志向がそのルックスやステージングに反映されていたと言えよう。

そして、音楽的にもわかりやすかった。LAメタルのミュージシャンたちもNWOBHMのバンド同様、ブリティッシュ・ハード・ロックから影響を受けていたが、同時にAEROSMITH、KISS、VAN HALENといった、同じアメリカのハード・ロック・バンドからの影響も強かった。というか、直接的にそうしたバンドを意識していたというよりは、アメリカで生まれ育ったがゆえに、アメリカのロック/ポップ・ミュージックが素養として存在していたというほうが適切だろう。

そのため、イギリスで生まれた「ヘヴィ・メタル」というスタイルを模倣してプレイしても、その素養がサウンドをイギリスのバンドと同様にはしなかった。彼らはスピード・チューンよりノリのいいミドルテンポの曲をより好んだし、複雑でドラマティックな展開よりコンパクトでシンプルな曲構成を好んだ。何よりウエットな叙情性よりも、カラッと明るいフィーリングがサウンド全体を包んでいた。要はキャッチーだったのである。

こうした明るさや大衆的な要素は、ブリティッシュ・ロック至上主義のロック・マニア(日本のロック・ジャーナリストに多かった)には「軽薄なもの」として低評価を受けることになったが、若いリスナー(当時は"キッズ"と呼ばれていた)には支持された。

当時は今ほど過激なルックス、過激なサウンドのアーティストが多くなかったため、普通のロック・ファンにとってはLAメタル・バンドのルックスやサウンドは充分に刺激的だった。もちろん探せば他にも過激なサウンドというのは存在していたのだが、それは当時にあってはマニアックなものであり、特にマニアではない若いロック・ファンにとってはLAメタルのバンドというのが「ちょうどいい刺激」だったのである。

そしてその「ちょうどいい刺激」を持った「派手なルックス」のミュージシャンたちに若い女の子が飛びついた。いつの時代も「目立つワル」はモテるのである。ポップ・ミュージックが一般レベルでブレイクするためには「女の子に受けること」が重要である。男ばかりが群がる場所に女性は近づきにくいが、女の子が集まる場所には男も集まるからである。なぜそうなるか、ということを追求するとジェンダー論とか社会学的な境地に突入し、フェミニストのような危険な人たちを刺激してしまうのでこれ以上詳しくは掘り下げないが、とにかくそういうものである。

単純に考えて、「男だけに受けるもの」より「男にも女にも受けるもの」の方が、商業的にはポテンシャルが大きい。身も蓋もない言い方をすれば、「金になる」のである。そしてお金が稼げるフィールドには、成功を求めてより多くの才能が(玉石混交とは言え)集まってくる。LAメタルは、この好循環を生み出すことで、HR/HMというジャンルをポップ・ミュージック・シーンのメインストリームに押し上げることに成功したのである。

そして、やや蛇足になるが、LAメタルが若者に支持された理由のひとつに、「ロックンロール・ドリーム」というか「アメリカン・ドリーム」を体現していたということがあげられるだろう。

「ギターひとつを持って大都会に出て来た貧乏な若者が、バンドを組んでバイトや女のヒモなどをしながら街角に自分たちのビラを貼ってギグの宣伝をし、クラブでプレイするうちに人気を得て、インディーズで自主制作した音源が評判になりメジャー・レーベルと大金で契約、ブレイクして世界中のアリーナを満杯にし、浴びるほど酒を飲み、ドラッグの快楽に溺れ、グルーピーの女たちとヤリまくる…」こんな陳腐なサクセス・ストーリーがこの時代にはまだ夢見られていたのである。

やはり夢のある所に求心力が生まれる。LAメタルにはその夢があり、その夢に吸い寄せられた人たちによってアメリカのHR/HMは巨大化していったといえるだろう。

LAメタルの変調

83年から85年というのがLAメタルの最盛期と言われる。後世においてLAメタルに分類されるバンドの多くがメジャー・デビューを飾り、チャート・アクションも上り調子だったのがこの時期である。

後世から俯瞰的に見ると、アメリカにおけるHR/HMの人気というのは91年ごろまで続いている。しかし、LAメタルというムーブメント自体は、86年には終わっていたと見るべきだろう。というのも、86年以降、アメリカのHR/HMシーンの中心を担ったのはむしろLA以外のバンドであり、LAのバンドであっても、当初の「メタル」としてのスタイルを捨て、よりポップな方向性、あるいはよりロックン・ロールに寄ったスタイルのバンドだけだからだ。

そういう意味で、やはりターニング・ポイントはBON JOVIの大成功だろう。東海岸、ニュージャージー出身の彼らが1986年に発表した「SLIPPERY WHEN WET(邦題:ワイルド・イン・ザ・ストリーツ)」は全米No.1シングルを2曲送り出し、8週連続全米1位を記録、HR/HMを完全にメインストリームにしてしまった。もはや、マイケル・ジャクソンやマドンナを聴いていたような層ですら、HR/HMを聴くようになったのである。

こうした状況を受け、出現当初こそメタルとしては充分にキャッチーに映ったLAメタルのバンドですら、「ちょっとメタリックすぎる」と感じるリスナーが大勢を占めるようになる。

一番わかりやすい事例が、デビューから一切スタイルを変えなかったRATTだろう。84年のデビュー・アルバム、85年のセカンド・アルバムを共に全米7位に送り込んでいたが、86年に発表されたサード「DANCING UNDERCOVER」は、音楽的に何も変わっておらず、楽曲のクオリティも目立って低下していない(個人的にはむしろ前作より良かったと思う)にもかかわらず、全米26位にとどまっている。

HR/HM、絶頂から飽和状態へ

HR/HMの本格的なメガヒットというのは、むしろこの86年以降にたて続く。先述したBON JOVIはもちろんのこと、DEF LEPPARDやニュー・シンガーにサミー・ヘイガーを迎えたVAN HALENなど、それ以前から大ヒットを記録していたバンドはもちろん、スウェーデンから現れたEUROPE、時流に合わせて大幅にイメージ・チェンジしたWHITESNAKE、そしてBON JOVIが見出したフィラデルフィアのCINDERALLAやニュージャージーのSKID ROW、そしてニューヨークのWINGERやWHITE LIONといった東海岸のバンドが次々とマルチ・プラチナムに輝く大ヒットを飛ばした。全米TOP10の半数以上のアーティストがHR/HM系のバンドという、21世紀の今となっては信じがたい事態さえ実現した。空前のHR/HMバブルである。

ただ、このBON JOVIのブレイクに始まるHR/HMバブルも、単純にBON JOVIが凄かった、というよりは、1980年から1982年にかけてAC/DCやSCORPIONSやJUDAS PRIESTやVAN HALENといったバンドがマーケットの土壌を作り、1983年から1985年までLAメタルのバンド群がその土壌を充分に耕したからこそ達成されたと考えるべきである。

すなわち、LAメタルという、自国の若いアーティストが市場を充分に開拓した絶好のタイミングでBON JOVIが大爆発を起こすに相応しい名作をリリースし、各レコード会社が「第二のBON JOVI」を狙って積極的にHR/HMバンドを発掘・投資・プロモーションしたことによって空前のメタル・バブルが発生したものと考えるのが自然だろう。

かつてデビュー間もない時期のBON JOVIがRATTの前座を務めていたことを考えると、LAメタルはそれに続くポップ・メタル・バブルの「踏み台」として機能したと言っても過言ではない。MOTLEY CRUEなど一部のバンドを除くと、バブルの波に乗り切れず、セールス面において新しく登場してきたよりポップなバンドの後塵を拝することになったバンドも多かった。

もちろんLAから人気バンドが登場しなかったわけではない。「LAメタル最後の大物」と言われたPOISONが1986年に、そしてこれまた「LAメタル最後の大物」と呼ばれたWARRANTが1989年にメジャー・デビューし、どちらも全米TOP10を記録する大ヒットを記録している。しかし、これらのバンドは大衆的な魅力には満ちていたが、「メタル」と呼ぶに値するエッジや毒は持っていなかった(そのバンド名にもかかわらず!)。

そして、さらにLAという街のトレンドを変えたのはやはりGUNS 'N' ROSESだろう。彼らもデビュー当初こそ「新手のグラム・メタル」扱いだったようだが、そのブルーズやR&Rをベースにしたストリート感覚あふれる生々しいサウンドは、LAのトレンドのみならず、HR/HMシーンの流れを変えたと言っても過言ではない。

1987年にリリースされた伝説的デビュー・アルバム「APPETITE FOR DESTRACTION」は1年以上の時間をかけて全米1位に昇りつめ、リリースから2年近くが経った1989年にもなおチャートの上位に居座っていた。この期間が、ポップでデコラティブ(装飾的)だったHR/HMのトレンドが変質していく期間だったといえる。

とはいえ何事も一朝一夕には変わらない。GUNS 'N' ROSESブレイク後の1990年にもFIREHOUSEの「FIREHOUSE」、SLAUGHTERの「STICK IT TO YA」といったゴージャスな「ポップ・メタル」が次々と登場し、ヒットしていた。特にNELSONの「AFTER THE RAIN」は、カントリー・ミュージックをバックグラウンドに持つアイドルとしてデビューしたユニットがHR/HM寄りのサウンドを打ち出すほどにHR/HMが一般化していたことを示す象徴的なサンプル事例である。

しかし一方で多くのバンドがGUNS 'N' ROSESなどにインスパイアされた「ルーツ志向」(彼らの言うルーツとは、ブルーズ・ロックやロックン・ロールなど、70年代以前のサウンドのことを指していた)を打ち出し、渋さや生々しいロック・サウンドを強調するアプローチにシフトしつつあった。またこの時期、EXTREMEやBANG TANGOなど、従来のHR/HMにはない異ジャンルのサウンドを巧みに取り入れた、ある種オルタナティヴ/ミクスチャーの先駆けとでもいうべきバンドも登場している。

そして、その大衆性の追求が飽和状態となってむしろ大衆に飽きられ、ルーツ志向やミクスチャー志向といった新しい動きが目立ち始めた1991年、NIRVANAの「NEVERMIND」による、ロック史上最大級の革命が勃発。HR/HMどころかロック・シーン、いや、ポップ・ミュージック・シーンそのものの潮流が大きく変化することになる。

もちろんこの時期、「LAメタル」などというワードは完全な死語になっていた。「ヘビメタ」(あえてこの呼称を使おう)に対して、派手な格好をしてセックスやパーティーなど内容のない詞を歌い、無意味にギターを弾きまくる「カッコばかりで中身のない音楽」というマイナス・イメージを残して…。

 

LAメタル、まずはこの3枚

この3作が、LAメタルにおける最大の音楽的成果かと言われると自信がないが、ここに挙げた3枚にこのムーブメントを象徴する意味があることについては多くの人の賛同が得られるのではないか。実際、この3枚を聴けばLAメタルの基本的な雰囲気はご理解いただけると思っている。


MOTLEY CRUE / TOO FAST FOR LOVE (1981)

完全にアンダーグラウンドの動きだったLAメタルに、国際的な注目を集める最初のきっかけはやはり彼らのこの作品だったといえるだろう。攻撃的かつグラマラスでキャッチー。荒削りではあるが、これこそLAメタルのプロトタイプである。


QUIET RIOT / METAL HEALTH (1983)

ランディ・ローズの事故死という話題性に乗っかり、かつシングル・ヒットした「Cum On Feel The Noise」はSLADEのカヴァーだったが、本作が全米No.1に輝いたという事実は、当時盛り上がりつつあったLAメタルを象徴するエポックメイキングな出来事だった(彼ら自身は一発屋に終わってしまったが…)。

RATT / OUT OF THE CELLAR (1984)

LAメタルの典型的なイメージを象徴するのは、イメージを変え続けたMOTLEY CRUEよりもむしろこのバンドだろう。従来のHR/HMとは異なる、明るくセクシーな「ラットン・ロール」サウンドは斬新で、彼らの着ていたカットTシャツも流行った。本作収録の「Round And Round」はこの時代のアンセム。

 

「LAメタル」を代表するアルバム群

LAメタルとは何か、より深掘りしたい方には以下のアルバムをお薦め。なんとなく明るくチャラいメタル、みたいな印象を持たれている「LAメタル」だが、少なくともスタート時点においてはちゃんと「メタル」していたのである。


MOTLEY CRUE / SHOUT AT THE DEVIL (1983)

悪魔的なイメージ、ヘヴィ・メタリックなサウンド、LA「メタル」としての彼らの代表作といえるセカンド・アルバム。これほどにメタリックでもなおキャッチーさは充分という彼らのソングライティングの妙が光る傑作。

DOKKEN / TOOTH AND NAIL (1984)

序曲的なイントロ#1からスピード・ナンバーのタイトル曲#2へという流れは完全にヘヴィ・メタル。ドン・ドッケンのソフトな歌声を活かしたバラード・ナンバーなどもありつつ、この時点ではまだまだ鋭利な攻撃性がサウンドに渦巻いていた。当初の支持基盤がドイツにあったというのも頷けるサウンド。

W.A.S.P. / W.A.S.P. (1984)

「Animal (Fxxk Like A Beast)」というとんでもない曲でデビューした彼らのメジャー・ファースト・アルバム。ワイルドなイメージの反面、意外にキャッチーな楽曲作りのセンスに秀でており、スマッシュ・ヒットを記録。LAメタルの暴力的で色物的なイメージを象徴するバンドと言えるだろう。

ARMORED SAINT / MARCH OF THE SAINT (1984)

後にANTHRAXに加入するジョン・ブッシュ(Vo)が在籍していたことでも知られるバンド。音楽的にはいたって正統的なヘヴィ・メタルで、欧米ではMOTLEY CRUEなどと同列に扱われることはないが、たまたま活動拠点がLAだったため、日本では「LAメタル」の名の下にいっしょくたの扱いだった。

BLACK N' BLUE / BLACK N' BLUE (1984)

オレゴン州ポートランド出身のバンドがLAに活動拠点を移し、オムニバスへの楽曲提供で注目を集め、ディーター・ダークスをプロデューサーに迎えて当時新興の「Geffin」から発表したデビュー作。特に日本で人気が高く、LAメタルにおけるビッグ・イン・ジャパン的存在と言えるだろう。代表曲「Hold On To 18」収録。

ICON / ICON (1984)

アリゾナ州フェニックス出身のバンドがLAに活動拠点を移し、メジャーの「CAPITOL」との契約を得て発表したファースト。ソングライティングには確かな実力を感じさせるものの、チャート的な成功には恵まれなかった。しかしそれでもLAメタルの名盤特集などではかなり高い確率でピックアップされるバンド/アルバムである。


STRYPER / SOLDIERS UNDER COMMAND (1985)

ハチのような黄色と黒のストライプの衣装、メンバー全員クリスチャンであり、聖書をステージから客席に投げ込むパフォーマンスで話題となった彼ら。作を重ねるごとにポップになっていったが、本作時点ではまだブリティッシュHR/HM由来のリリシズムがある。


ROUGH CUTT / ROUGH CUTT (1985)

個性的なシンガーは多いが、上手いシンガーは珍しいLAメタルにおいて貴重な実力派シンガー、ポール・ショーティノをフィーチュアしたバンドのデビュー作。デビュー以前にはジェイク・E・リーやクレイグ・ゴールディ、クロード・シュネルといったメンバーが在籍していた「虎の穴」的バンド。硬派なサウンドはマニアには評価されたが、売れなかった。


OZZY OSBOURNE / BARK AT THE MOON (1983)

ランディ・ローズに続き、LAメタル人脈ど真ん中と言えるジェイク・E・リーをギタリストに起用したオジーの(シャロンの?)時代を読むセンス(あるいはアメリカで成功しようという執念)はさすがだった。NWOBHMからLAメタルの橋渡しという評価もあるが、単純に英国HR/HMにおけるアメリカナイズの成功例と見た方が適切だろう。


KING KOBRA / READY TO STRIKE (1985)

元VANILLA FUDGE、CACTUS、BECK, BOGART&APPICEといった60年代以来の錚々たるキャリアを持つ大ベテラン・ドラマーが、フロントに金髪の若者を集めて結成した「人工LAメタル・バンド」。本質的にはOZZY OSBOUENEとやってることは変わらないが、それほど成功しなかった。劇的なイントロを持つタイトル曲は名曲。


LIZZY BORDEN / LOVE YOU TO PIECES (1985)

LAメタル・バンドにとってのメイクというのは単に目立つための手段だったが、シアトリカルでドラマティックな世界観を持つこのバンドのメイクには必然性があった。JUDAS PRIESTやIRON MAIDEN直系のサウンドでドラマを描きつつ、バンド・イメージとしてはW.A.S.P.と並んでキワモノ的なイメージを放っていた。


KEEL / THE RIGHT TO ROCK (1985)

かつてSTEELERでイングヴェイ・マルムスティーンと組んでいたロン・キール(Vo)率いるバンドの、ジーン・シモンズ(KISS)のプロデュースによるセカンド。歴史的には泡沫的なバンドではあるが、LAメタルの中核というか典型的なバンドというのは、実際はこういうバンドだったのではないかと思われる。

 

大衆性を強めていくLAメタルを象徴する作品

元々はそれなりにメタリックなサウンドでデビューしていたことが多いLAメタル勢だが、なまじ売れてしまっただけに(本人たちというよりは、レコード会社やマネージメントが)色気を出して、より商業的な成功が見込めるサウンドへとシフトしていった。その思惑が上手くいき、商業的な実績を高めるケースもあれば、そういったコマーシャルなセンスがなく、逆に失速するバンドも少なからず存在した。


MOTLEY CRUE / THEATER OF PAIN (1985)

このサードでメタル・バンドからバッド・ボーイズR&R方面へとイメージ・チェンジ。その後も絶妙にイメージやサウンドをコントロールし、「LAメタル」の枠を超えた、80年代を代表するバンドの地位に登りつめて行った。


DOKKEN / UNDER LOCK AND KEY (1985)

ポップさを増しつつも、ハードなエッジはしっかり残すことで、大衆ファンもある程度獲得しつつ、HR/HMファンからも支持されるなど、バランスよく立ち回ったが、それだけに成功の規模は中途半端にとどまった。その後ドン・ドッケン(Vo)とジョージ・リンチ(G)の仲の悪さが限界に達し内部崩壊。

GREAT WHITE / ONCE BITTEN (1987)

最もドラスティックに「脱LAメタル」し、HR/HMシーンの「ブルーズ回帰」が本格化する前にブルーズ・ハード・ロックに転身して成功。本作を足掛かりに連作というべき次作「TWICE SHY」ではイアン・ハンターのカヴァー「Once Bitten, Twice Shy」を全米5位に送り込み、アルバムも全米9位に輝くヒットを記録。


POISON / LOOK WHAT THE CAT DRAGGED IN (1986)

ルックスはケバいわ、演奏は下手だわ、評論家受けは最悪だったが、そのポップで親しみやすいロックン・ロール・サウンドは当時のティーンの心をとらえ大ヒットした。しかしさすがにこの時点で彼らがLAメタル出身のバンドでMOTLEY CRUEに次ぐ成功者になることを想像できた人は少なかったのではないか。

WARRANT / DIRTY ROTTEN FILTHY STINKING RICH (1989)

大衆型ポップ・メタルの最終兵器といっていいだろう。バラード「Heaven」が全米No.2に輝く大ヒットとなり、アルバムも全米TOP10にランクインした。曲も演奏もハイレベルでルックスもいい、こういうデビュー・アルバム時点で「完成品」みたいなバンドが出てくるようになったらそのムーブメントは一丁上がり、ってことです。

 

メタル・バブルを彩ったメガヒット作品群

好悪はあれ、ここに挙げられたアルバムがHR/HMという音楽の商業的な意味での黄金時代を象徴する作品群であることは否定しえないであろう。ここでHR/HMというジャンルに対する認知とリスナーの裾野が大きく広がったことで、HR/HMは向こう数十年に渡って生き延びることができるだけのファン・ベースを築くことができたと言っても過言ではない。一方で、「80年代の昔に流行った音楽」という懐メロ的なイメージをも付けてしまったのだが…。


BON JOVI / SLIPPERY WHEN WET (1986)
グッド・ルッキンなメンバーの華やかなパフォーマンスをフィーチュアしたビデオがMTVで大受けし、「You Give Love A Bad Name」「Livin' On A Prayer」という2曲の全米NO.1ヒットが誕生。BON JOVIを80年代を代表するアーティストに押し上げたメガ・ヒット・アルバム。

DEF LEPPARD / HYSTERIA (1987)
ドラムのリック・アレンが片腕を失うという事故を乗り越え、マット・ラングのプロデュースの下、「200万枚売れても赤字」という当時他に例を見ない高額のレコーディング費用をかけて制作された。前作「PYROMANIA(邦題:炎のターゲット)」の段階で既に大ヒットを記録していたが、それをさらに上回る大ベストセラーとなった名作。

EUROPE / THE FINAL COUNTDOWN (1986)

スウェーデンから彗星のごとく登場した、と言いつつ日本ではそれ以前から知られていた美旋律ハード・ロック・バンドのワールド・デビュー作。日本のマニアからはアメリカナイズされてしまったと批判されたが、タイトル曲は全世界的な大ヒット曲となった。ジョーイ・テンペスト(Vo)をはじめ、メンバーのルックスが良かったのも勝因。

CINDERELLA / NIGHT SONGS (1986)

BON JOVIのサポートでチャンスをつかんだペンシルバニア出身のハード・ロック・バンドのデビュー作。ブルーズをベースに持ちつつも、きらびやかなポップ・メタルを体現し、全米3位、300万枚のセールスを記録した。「Shake Me」、「Nobody's Fool」といった代表曲を収録。

WINGER / WINGER (1988)

レブ・ビーチ(G)にロッド・モーゲンステイン(Dr)というセッション・ミュージシャンとしてのキャリアもある凄腕のメンバーに、バレエの素養がある華やかなフロントマン、キップ・ウインガー(Vo, B)を擁し、ボー・ヒルのプロデュースのもと完成度の高いサウンドを構築。4曲のシングルをスマッシュ・ヒットさせ、ダブル・プラチナムを記録。

WHITE LION / PRIDE (1988)

セックス・シンボル的な人気のあったデンマーク人シンガー、マイク・トランプのハスキーで甘い歌声と、ヴィト・ブラッタの構築美溢れるテクニカルでフラッシーなギター・ワークが売りのNY出身バンドのセカンドにして代表作。全米8位を記録した代表曲「Wait」、全米3位まで上昇したバラードの「When The Children Cry」などを収録し、200万枚を売り上げた。

SKID ROW / SKID ROW (1989)

CINDERELLA同様、「BON JOVIに見いだされた」という触れこみでデビューしたニュージャージー出身5人組のデビュー・アルバム。類い稀な美形フロントマン、セバスチャン・バックのハイパーな個性もあり、単なる売れ線メタルにとどまらないエナジーを感じさせるのが魅力的。「Youth Gone Wild」は超名曲。

SLAUGHTER / STICK IT TO YA (1990)

元VINNIE VINCENT INVASIONのマーク・スローター(Vo)とダナ・ストラム(B)を中心にラスベガスで結成されたバンドのデビュー作。華もエッジもあるパーティ・ロック・サウンドで90年から91年にかけて5曲のシングル中3曲がスマッシュ・ヒット、アルバムもダブル・プラチナムに輝いた。

FIREHOUSE / FIREHOUSE (1990)

メンバーの素朴で庶民的なイメージ、健全なハード・ポップサウンドは、もはやかつてHR/HMが持っていたような危険な臭いや猥雑さは皆無。全米5位まで上昇したバラードの「Love Of A Lifetime」を筆頭に、ただただ「良い曲」が揃っており、純粋に曲の良さで売れたバンドと言えよう。

NELSON / AFTER THE RAIN (1990)

アメリカの人気カントリー歌手だったリッキー・ネルソンの双子の息子、マシューとガナーを中心に結成されたバンド。アイドル的な売り出し方をされたが、サウンドはハード・ポップ路線で、デビュー・シングル「(Can't Live Without Your) Love And Affection」は全米No.1に。アルバムも300万枚を売り上げた。日本でもCMに起用されるなど大人気に。

 

メタル・バブルに乗るベテラン勢

スター性のある新しいHR/HMバンドが次々と登場してきた80年代後半のこの時期、70年代から活動していたようなベテランが若いバンドによって居場所を失ったかというと、むしろ逆で、ムーブメントの盛り上がりに乗って新たな黄金時代を迎える例が多かった。音楽的な連続性や過去のバンドに対するリスペクトが強いことはHR/HMの特徴のひとつと言えよう。


VAN HALEN / 5150 (1986)

脱退したデヴィッド・リー・ロス(Vo)の後任に、既にソロでかなりの成功を収めていたサミー・ヘイガー(元MONTROSE)を迎えて制作されたアルバム。「Jump」ほどのシングル・ヒットは出なかったが、サミーの高い歌唱力を活かした歌モノとして優れた楽曲揃いの本作でアルバムとしてはバンド初の全米No.1を記録、500万枚以上を売り上げた。


DAVID LEE ROTH / EAT 'EM AND SMILE (1986)

VAN HALENを脱退したヴォーカリストのデイヴィッド・リー・ロスが、THE BEACH BOYSのカヴァー「California Girls」をヒット(全米3位)させ、スティーヴ・ヴァイ(G)、ビリー・シーン(B)、グレッグ・ビソネット(Dr)という超絶テクニシャンでバックを固めて発表した、ゴージャスなアメリカン・ハード・ロック・アルバム。「アイツらを食って笑おうぜ」というタイトルはVAN HALENに対する挑発として話題になった。


AEROSMITH / PERMANENT VACATION (1987)

BON JOVIを大ヒットに導いたブルース・フェアバーンをプロデュースに迎え、そのBON JOVIの名曲を手掛けたデズモンド・チャイルドによる「Dude」や「Angel」といったシングルのヒットもあり、それまで10年近く低迷していた彼らが再び第二の全盛期に突入する契機となった。

WHITESNAKE / WHITESNAKE (1987)

元々はブルージーな渋めのブリティッシュ・ハード・ロック・バンドだったが、メタリックな感触とコマーシャルな感覚を共に増した楽曲およびゴージャスなプロダクションと、MTVを意識したビジュアル戦略によって全米2位の大ヒットを記録。「Here I Go Again」「Is This Love」といったシングル・ヒットも生まれ、ZEPを彷彿させる「Still Of The Night」も話題になった。


KISS / CRAZY NIGHTS (1987)

80年代に入るとメイクをやめてHM路線に移行し、この時期には売れっ子外部ソングライターを導入するなどしっかり時代を意識していたKISSだが、他のバンドに比べるとその路線変更が成功したとは言い難い。本作もプラチナムを記録しているし、次作からはTOP10シングル「Forever」が生まれたが、やはり大衆が求めていたのは「あの」KISSだったのだろう。


ALICE COOPER / TRASH (1989)

80年代初頭にはテクノにまで手を出すなど迷走し、商業的にも低迷していたが、この時期に活躍していたHR/HMバンドのメンバーにも彼の信奉者は多かった。BON JOVIやAEROSMITHのメンバー、そして彼らを成功に導いた天才ソングライター、デズモンド・チャイルドの支援を得て、プラチナムに輝く復活作となったアルバム。


DAMN YANKEES / DAMN YANKEES (1990)

ソロ・アーティストとして70年代から活躍するテッド・ニュージェント(G,Vo)、元STYXのトミー・ショウ(G, Vo)、元NIGHT RANGERのジャック・ブレイズ(B, Vo)による、HR/HMバブルに乗るために結成された(?)スーパー・グループ。思惑通りバラード「High Enough」が全米3位の大ヒット、アルバムも200万枚を売るヒットとなった。

 

「ルーツ回帰」するアメリカのHR/HM

BON JOVIの成功以降、過剰なまでに大衆化していったHR/HM。一方で商業的な成功の裏側に、かつてロックが持っていたブルーズやR&Bのような黒人音楽由来の魅力が失われたことを嘆くリスナーも多かった。そうした「本格志向」のリスナーの要望に応えるかのように登場した救世主がGUNS N ROSESであり、同時期に訪れた「ブルーズ回帰」ブームであった。現在はレコード会社に求められてポップなグラム・メタルをプレイしているが、自身が若いころに影響を受けたのはもっとピュアなロックン・ロールやブルーズ・ロックだった、というミュージシャンは多かったのである。もっとも、逆もまた真なりで、実際はメタル野郎なのに、単にブームに乗って「なんちゃってブルーズ風ハード・ロック」に手を染める輩も多かったのだが…。


GUNS N' ROSES / APPETITE FOR DESTRUCTION (1987)

もはやいちいち語るまでもない、最後のバッド・ボーイズ・ロック・バンドによる伝説のデビュー・アルバム。ロックに「危険な香り」が漂っていた最後の時代を象徴するアルバムといえるだろう。ロックン・ロール、最後の打ち上げ花火である。

CINDERELLA / LONG COLD WINTER (1988) 

この時期のトレンドだった「売れ線ポップ・メタルからのブルーズ回帰」の例として最もわかりやすい事例。バンドに適性があったこともあって、前作に比べてチャート・アクションは落ちたが、セールス的には同規模の300万枚の売上を記録した。

TESLA / THE GREAT RADIO CONTROVERSY (1989)

ソウルフルなジェフ・キースのヴォーカルをフィーチュアしたブルージーなアメリカン・ハード・ロック・バンドの、ダブル・プラチナムを記録したセカンド。シングル「Love Song」が全米10位のヒット。次作「FIVE MAN ACOUSTICAL JAM」は後のアンプラグド・ブームの先駆けといえる。

MR.BIG / MR.BIG (1989)

元TALAS〜DAVID LEE ROTHのビリー・シーン(B)に、元RACER Xのポール・ギルバート(G)という、当代きってのテクニシャンが揃ったスーパー・バンドという触れこみだったが、そこで実践されたサウンドはテクニックのひけらかしではなく、むしろオーソドックスといえるロック・サウンドであったことが時代の変化を感じさせる。


BADLANDS / BADLANDS (1989)

LAメタルを代表するギタリストの一人であるジェイク・E・リーが、OZZY OSBOURNEの元を離れて結成したバンドのデビュー作。レイ・ギラン(元BLACK SABBATH)のソウルフルなヴォーカルをフィーチュアしたブルージーなハード・ロック・サウンドで、商業的にはさほどでもなかったが、玄人筋の評価は高かった。

THE BLACK CROWES / SHAKE YOUR MONEY MAKER (1990)

クリス(Vo)とリッチ(G)のロビンソン兄弟を中心とするブルーズ・ロック/サザン・ロック・バンドのデビュー作。R&Rをベースにしつつもジョージア州出身らしいレイドバックした南部らしいサウンドはAEROSMITHのツアー・サポートなどを通じて全米で受け入れられ、500万枚を超えるヒットに。ファーストにして既にTHE ROLLING STONESやFACESの趣がある。

JACKYL / JACKYL (1992)

ジョージア州出身5人組のデビュー作。サザン・ロックの影響を受けた骨太なハード・ロック・サウンドで、全米最高位こそ76位にとどまるが、ツアーを通じて支持を高め、最終的には100万枚を売り上げた。こういう飾り気のないサウンドのニーズがアメリカにあることを証明したものの、こういうバンドですら90年代オルタナティヴの流れには抗しえなかった。

 

「オルタナティヴ」を模索するHR/HM

80年代末から90年代初頭、飽和状態に陥っていたアメリカのHR/HMシーンにおいて、「ルーツ回帰」とは別なアプローチでマンネリ化したHR/HMからの脱却を目指し、文字通りの意味でのオルタナティヴ(既存のものと取って代わる新しいもの)を志向するバンド群も多かった。ただ、しょせんは「内部からの改革運動」だったため、グランジ/オルタナティヴのような「外側で起こった革命」のようなインパクトをシーンに与えることはできず、どのバンドも90年代のうちにフェイドアウトしていった。実際の所、レコード会社やマネージメントの売り出し方次第ではグランジ/オルタナティヴのブームに乗っかることができるポテンシャルのあるバンドもいたはずなのだが。


UGLY KID JOE / AMERICA'S LEAST WANTED (1992)

当時HR/HMが失いつつあった「イマドキの悪ガキ」的なニュアンスを持つバンドとして注目され、ダブル・プラチナムに輝くヒットに。実際コマーシャルなバンドに対するパロディ、アンチテーゼ的な存在感でもあったのだが、結局は「ヘア・メタルの亜流」という評価で終わってしまった。

SAIGON KICK / THE LIZARD (1992)

90年代を通過した後に聴いてみれば、このバンドが持っていたセンスは「オルタナティヴ」に通じるものだった。シングル「Love Is On The Way」が全米12位まで上昇し、アルバムもゴールドに輝くなど期待されていたが、ジェイソン・ビーラー(G)のギターが巧すぎたのがHR/HMっぽく見られてしまった理由のひとつかもしれない。


WARRIOR SOUL / LAST DECADE DEAD CENTURY (1990)

「現代の辻説法師」と呼ばれたカリスマ・シンガー、コリー・クラーク率いるニューヨーク出身のバンドの「Geffin」からのデビュー作。パンクからサイケデリックまでを吸収したヘヴィ・ロック・サウンドは、当時にあっては早すぎる音で、評論家には高く評価されたが、HR/HMファンにもオルタナティブ・ファンにも受け容れられなかった。

EXTREME / PORNOGRAPHITTI (1990)

HR/HMと異ジャンルの音楽を融合するにあたって、ファンクを選んだセンスは炯眼だった。その優れた音楽センスに裏打ちされた楽曲もクオリティが高かったが、その構築志向、テクニカルさ、そして華やかなムードはやはりLAメタル以降のアメリカンHR/HMの流れに則ったものだったと言わざるをえない。

LOVE/HATE / BLACKOUT IN THE RED ROOM (1990)

パンク/ニューウェーブからの影響を受けた一筋縄ではいかないサウンドと、ハイエナジーなパフォーマンスで、当時巷にあふれていた甘口HR/HMとは異なる雰囲気を放って期待されていたが、結局Voだったジジィ・パールは後にL.A.GUNSやらQUIET RIOTやらのVoに収まるなど、結局このシーンの界隈から出られなかった。

ENUFF Z' NUFF / ENUFF Z' NUFF (1989)

THE BEATLESやCHEAP TRICKに通じるポップ・センスとソングライティング力を持つバンドとしてレコード会社の争奪戦となるほど期待されていたが、なまじHR/HMに強い「Atco」と契約してしまったのが仇となったか、ヘア・メタルのイメージ全開なプロモ・ビデオのためにパワー・ポップとしての魅力が過小評価されてしまった。

BANG TANGO / PSYCO CAFE (1989)

後にBEAUTIFUL CREATURESのフロントマンとして一瞬再注目を浴びたジョー・レステの爬虫類的なヴォーカルをフィーチュアしたバンドのデビュー作。当時にしては珍しく、キャッチーな中にもダークなムードがあり、ファンクの要素を取り入れたダンサブルなビートも目新しかった。

ALICE IN CHAINS / FACELIFT (1990)

グランジ/オルタナティヴの中心的存在のひとつとして知られるバンドだが、メンバーがかつてグラム・メタル・バンドでプレイしていた経歴を持ち、このバンドも「元々はただのメタル・バンドだった」とメンバーは語っている。このバンドと、オルタナティヴに乗り切れず消えて行ったバンドを分けたものはなんだったのだろうか。


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